ここ一週間、恒常的な怒りに困っていたが、ようやく怒りが収まったように思う。
なぜ収まったかと言うと、この怒りがどうにも耐えきれず、友人に話を聞いてもらったり、友人の意見を聞いたりしているうちに、許してもいいか(?)と思えたのだ。これといった決定打があった訳ではなく、会話全体を通してそういう判断に至った。会話初めは、許すなんて絶対に不可能と思っていたのに、突然許してもいっかと思った。
考察するに、そもそも私が怒りを抱いていた対象の人物が、私の嫌いなタイプではない、むしろ好ましいタイプの人間であった事が大きい。私に悪意を持ってor意図的にダメージを与えた訳でない事はわかっていた。しかし、下手すれば私が死ぬレベルのダメージだったため、怒りを抑える事ができなかった。
思い返してもダメージは大きすぎたが、これによって学んだ事も大きかった。これがなければ、私はもっと痛い目に遭っていただろう。それこそ最悪な死に様or生き様になった可能性がある。
自分の目の節穴さも思い知った。後から思い返せば、不穏なサインはいくつもあった。しかし、そのサインをことごとくスルーしてしまった。本当に愚かだった。なぜ、その違和感を感じた時、アクションを起こさなかったのか、今となっては悔やまれる。小さな違和感でも無視してはいけない。違和感、疑問は都度潰すべきだ。
私は個人主義で人間関係を希薄にしがちだったが、そのないがしろにしていた人間関係に助けられ、ありがたさを知った。人間関係は大事にしないといけない。自分一人ではどうにも解決できない事がある、他人の助けがなければ生きぬくことができない事を思い知った。
さらに私は神も仏もないがしろにしていたが、見えないものに助けられた気もしている。そんなわけで、科学とは真逆の物、畏敬の物も大切にする。宗教活動(?)、精神活動含め、大切にしていく。
とまぁ、ダメージを受けた事象と数少ない私の身の回りの人間関係のおかげで、考え方を大きく変えられた。私の場合、痛い目をみないと考え方を変えない、変えられないので、そいう意味では良かったと思う。
以上。